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日本の時計産業概史

人類が「時」を考え始めたのは何千年前のことであり、紀元前2千年頃にエジプトで日時計が作られています。"時を計る"道具は、日時計のほか、水時計、砂時計、火時計などが考案されてきました。日本では西暦671年、天智天皇が初めて漏刻(水時計)を作り、時を知らせたと日本書紀にみられます。それでは、時計がいつ日本に伝わり、日本に時計産業がどのように興り発展していったかを整理してみましょう

1.機械時計の日本への伝来と製作−江戸時代前
(1551年〜1602年)

日本における時計産業の歴史は、16世紀中期のキリスト教の伝来とともに始まったと申せましょう。日本に渡来した最初の機械時計は、天文20年(1551年)、宣教師フランシスコ・ザビエルによって、周防の国(現在の山口県)の領主であった大内義隆に献上されたものと云われています。それから、ローマ法王訪問使節が豊臣秀吉を訪ね、自鳴鐘を献上するなどして、我が国に機械時計が少しずつ入ってきました。なお、現存する最古の機械時計は、イスパニア(現在のスペイン)から徳川家康に贈られたもので、静岡県の久能山東照宮に保管されています。1600年頃、天草島の志岐ではゼミナリヨと云うキリスト教の付属機関(職業学校)において、宣教師が日本人へ、時計、オルガン、天文機械等の製作法を教えました。これが日本での機械時計製作の始まりかもしれません。


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2.和時計の時代−江戸時代(1603年〜1868年)

江戸時代に入り、外国から輸入された機械時計を参考にして、工芸的な時計が多く作られるようになりました。これは「和時計」と呼ばれ、日本独特の時計になりました。それは、「不定時法」と云う時刻表示を用いた時計であるからです。不定時法とは、欧米が用いていた「定時法」と違い、日出と日没によって昼と夜に分け、それぞれを6等分(九ツ〜四ツ)する時刻表示方法です。時刻と太陽の位置は一致しますが、夏の昼の時間は長く、夜の時間は短くなるなど、季節によって時間の長さが変化します。

江戸時代は「時計師」と呼ばれる技術者を多く輩出しています。江戸初期では津田助左衛門、中期では幸野吉郎左衛門、廣田利右衛門、後期では田中久重(からくり儀右衛門の名で知られている)、大野規周などが有名です。彼らは幕府のお抱えの時計師として和時計を製作しました。

和時計には櫓時計のほかに尺時計、枕時計などがありました。櫓時計では時打ち、目覚、暦日装置などの複雑な機構を持ち、技術的にも高度な機械と云えます。


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3.近代日本時計産業の黎明期、発展期−明治初期〜戦中(1868年〜1945年)

明治に入り、明治5年(1872年)、これまでの太陰暦から太陽暦採用への布告(太政官布告第453号、明治5年12月3日が明治6年1月1日となる)がなされると共に、時刻の表わし方も「不定時法」から「定時法」に変わり、「何字」と云われていたものが「何時」と云うことに決められました。「和時計」は必然的に終焉を迎えることになりますが、欧米からの時計生産技術の導入を積極的に行ったので、我が国には近代時計産業があらためて根づく結果となりました。

我が国の近代時計製造の草分けは、明治8年(1875年)の東京麻布の金元社に始まり、明治18年(1885年)頃の愛知県の中條勇次郎、明治20年(1887年)の林市兵衛による時盛社(後の林時計製造所)で、柱時計(ボンボン時計と呼ばれた)が生産されました。柱時計は、特に名古屋地方で発達しました。これは江戸時代から、この地方は木曽川の木材の集散地であり、我が国有数の木工職人や小物鍛冶職人の供給源であったからと云われています。

また、日本における懐中時計は、明治12年(1879年)に大野規周の高弟、大野徳三郎が懐中時計の機械および側を手工で製作したとありますが、工場生産としては、明治27年(1894年)に大阪時計製造が米国企業からの機械設備を入れて米国人技師の指導の下、アンクル脱進機の懐中時計を製造(月産数百個程度)したのが始まりとされています。その後、いろいろな人が時計工場を興し、掛時計、置時計、懐中時計を作り始めました。明治後期の時計工場数は、20を数え、全国の生産数(置掛時計)は年間約380万個であったと云われています。この時代の日本の時計産業は、手工業型(この頃米国では既に大量生産方式を確立していた)ですが、日本人の器用さにより技術力が向上し、後の発展の牽引力となりました。大正後期には腕時計も生産されるようになり、その後、日本時計産業は着実と発展してきました。


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4.現代日本時計産業の概況−戦後〜現在
(1946年〜現在)

我が国時計産業は、先の戦争では軍需産業に転換したため、休眠状態が続きましたが、戦後、朝鮮動乱による特需からきた日本経済の急速な立ち直りに伴い、また、政府の産業政策による援助や民間の生産技術研究所の設立、また、政府による国産時計品質比較審査会(時計コンクール)を通じて品質の向上が図られることなどを契機として徐々に復興してきました。そして、昭和31年(1956年)には国産初の自動巻腕時計が発売されるようになりました。その後、時計は所得水準の上昇に伴って、需要層が拡大し、かつての貴重品、奢侈品から生活必需品、流行商品、装飾品へと変わってきました。戦後まもない昭和21年(1946年)腕・懐中時計、置掛時計合計で約70万個であった生産量は、15年後の昭和36年(1961年)には早くも1,700万個を超えています。

その後、生産は飛躍的に拡大するとともに、大きな技術革新を迎えました。それは電子技術の導入により、従来のぜんまい、てんぷ、振子を使った機械式の時計からIC,水晶振動子を使った水晶式時計の出現です。音叉式や電子てんぷ式時計の一時期を経て、昭和42年(1967年)に世界初の国産の水晶式クロックが、昭和44年(1969年)には世界初の国産の水晶式アナログ腕時計が発売されました。水晶式時計は、ぜんまいを巻く必要がなくなるばかりでなく、時刻精度が飛躍的に伸びました。従来のぜんまい式の時計は一般的に1日に10秒から1分程度の誤差がありましたが、水晶式時計は1月で20秒程度の誤差で、中には1年で数秒の誤差をもつものもあります。つまり100倍近い精度の向上です。

この技術革新は、生産体制の変革をも促し、生産性を著しく向上させたばかりでなく、新たな需要も喚起しました。昭和54年(1979年)の国内生産は、ウォッチ(腕・懐中時計)5,970万個、クロック(置掛時計)4,350万個、総生産は1億個を超え、名実ともに世界一の時計生産国にまで成長しました。

今まで精度や信頼性の向上にさまざまな知恵が結集されてきた時計ですが、今日では、さらに地球資源や消費者の保護に力点をおいた商品作りに力が注がれています。例えば、電池交換不要の光エネルギー発電、自動巻発電の時計、あるいは、金属アレルギーを起しにくい材質のケースやバンドを使った時計などです。また、時計は、従来の「時刻を知る、時を計る」機械から、デザイン性を活かしたファッショングッズとしての面や、アウトドアー・ライフ、医療、通信等の多様化、高度化されたいわゆる携帯情報機器(ウエアラブル)への拡がりも見せています。

参考文献:

「日本の時計」山口隆二著、日本評論社、昭和25年
「時計史年表」時計史年表編纂室編、河合企画室、昭和48年
「時計工業の発達」内田星美著、セイコー時計資料館、昭和60年
「時計発達史」高林兵衛著、有明書房、昭和60年
「時計」清水修著、日本経済新聞社、平成3年
「日本時計協会30年史」日本時計協会、昭和55年
「工業統計表」通商産業省、平成10年版
「セイコー時計資料館、各種史料」


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