日本の時計産業概史

人類が「時」を考え始めたのは何千年前のことであり、紀元前2千年頃にエジプトで日時計が作られています。"時を計る"道具 は、日時計のほか、水時計、砂時計、火時計などが考案されてきました。

日本では、西暦671年(天智10年)4月25日に天智天皇が初めて漏刻(水時計)を作り、時を知らせたと日本書紀に見られます。時の記念日は、この日を太陽暦(グレゴリオ暦)に直して6月10日とされました。一方、その10年ほど前の西暦660年(斉明6年)にも中大兄皇子が漏刻を作られたとの記述があり、どちらにも「初めて」と書かれているので、その関係はよくわかっていません。これらの記録から、西暦660年あるいは671年の漏刻が日本で最初に作られた時計と考えられています。

それでは、時計がいつ日本に伝わり、日本に時計産業がどのように興り発展していったかを整理してみましょう。

柳川養仙『漏刻説』 画像提供:近江神宮
柳川養仙『漏刻説』
画像提供:近江神宮
飛鳥の水落遺跡発掘調査による想像図(中大兄皇子の漏刻でないかとされている)画像提供:奈良文化財研究所
飛鳥の水落遺跡発掘調査による想像図
(中大兄皇子の漏刻でないかとされている)
画像提供:奈良文化財研究所

 

1. 機械時計の日本への伝来と製作-江戸時代以前 (1551年~1602年)

柳川養仙『漏刻説』 画像提供:近江神宮
画像提供:久能山東照宮

日本における時計産業の歴史は、16世紀中期のキリスト教の伝来とともに始まったと申せましょう。日本に渡来した最初の機械時 計は、天文20年(1551年)、宣教師フランシスコ・ザビエルによって、周防の国(現在の山口県)の領主であった大内義隆に献上されたものと云われています。それから、ローマ法王訪問使節が豊臣秀吉を訪ね、自鳴鐘を献上するなどして、我が国に機械時計が少しずつ入ってきました。なお、現存する最古の機械 時計は、イスパニア(現在のスペイン)から徳川家康に贈られたもので、静岡県の久能山東照宮に保管されています。1600年頃、天草島の志岐ではゼミナリ ヨと云うキリスト教の付属機関(職業学校)において、宣教師が日本人へ、時計、オルガン、天文機械等の製作法を教えました。これが日本での機械時計製作の始まりかもしれません。

2. 和時計の時代-江戸時代 (1603年~1868年)

江戸時代に入り、外国から輸入された機械時計を参考にして、工芸的な時計が多く作られるようになりました。これは「和時計」と 呼ばれ、日本独特の時計になりました。それは、「不定時法」と云う時刻表示を用いた時計であるからです。不定時法とは、欧米が用いていた「定時法」と違 い、日出と日没によって昼と夜に分け、それぞれを6等分(九ツ~四ツ)する時刻表示方法です。時刻と太陽の位置は一致しますが、夏の昼の時間は長く、夜の 時間は短くなるなど、季節によって時間の長さが変化します。

江戸時代は「時計師」と呼ばれる技術者を多く輩出しています。江戸初期では津田助左衛門、中期では幸野吉郎左衛門、廣田利右衛門、後期では田中久重(からくり儀右衛門の名で知られている)、大野規周などが有名です。彼らは幕府のお抱えの時計師として和時計を製作しました。

和時計には櫓時計のほかに尺時計、枕時計などがありました。櫓時計では時打ち、目覚、暦日装置などの複雑な機構を持ち、技術的にも高度な機械と云えます。

(詳細は「和時計の世界」で紹介しています)
和時計の世界

 

3. 近代日本時計産業の黎明期、発展期-明治~昭和前半 (1868年~1945年)

クロックの側塗装工場
クロックの側塗装工場

明治に入り、明治5年(1872年)、これまでの太陰暦から太陽暦採用への布告(太政官布告第453号、明治5年12月3日が 明治6年1月1日となる)がなされると共に、時刻の表わし方も「不定時法」から「定時法」に変わり、「何字」と云われていたものが「何時」と云うことに決められました。「和時計」は必然的に終焉を迎えることになりますが、欧米からの時計生産技術の導入を積極的に行ったので、我が国には近代時計産業があらためて根づく結果となりました。

我が国の近代時計製造の草分けは、明治8年(1875年)の東京麻布の金元社に始まり、明治18年(1885年)頃の愛知県の中條勇次郎、明治20 年(1887年)の林市兵衛による時盛社(後の林時計製造所)で、柱時計(ボンボン時計と呼ばれた)が生産されました。柱時計は、特に名古屋地方で発達しました。これは江戸時代から、この地方は木曽川の木材の集散地であり、我が国有数の木工職人や小物鍛冶職人の供給源であったからと云われています。

また、日本における懐中時計は、明治12年(1879年)に大野規周の高弟、大野徳三郎が懐中時計の機械および側を手工で製作したとありますが、工場生産としては、明治27年(1894年)に大阪時計製造が米国企業からの機械設備を入れて米国人技師の指導の下、アンクル脱進機の懐中時計を製造 (月産数百個程度)したのが始まりとされています。その後、いろいろな人が時計工場を興し、掛時計、置時計、懐中時計を作り始めました。明治後期の時計工場数は、20を数え、全国の生産数(置掛時計)は年間約380万個であったと云われています。この時代の日本の時計産業は、手工業型(この頃米国では既に 大量生産方式を確立していた)ですが、日本人の器用さにより技術力が向上し、後の発展の牽引力となりました。大正後期には腕時計も生産されるようになり、 その後、日本時計産業は着実と発展してきました。

精工舎石原工場

 

4. 現代日本時計産業の概況-昭和後半~現在 (1946年~現在)

4-1. 生産復興準備期(戦後より昭和20年代前半)

戦時中、長い休眠を余儀なくされたわが時計工業は、戦後まもなく、わが国の永世中立平和国家論と並んで時計工業振興論が華々しく展開され、「東洋のスイス」をめざすオプティミズムに溢れていた。
しかし、その道程は決して平坦ではなく、戦災による設備能力の喪失は、ウオッチ60%、クロック30%に及び、破壊を免れた機械類も過度の軍需生産に酷使された結果甚だしい性能の低下、ないし損耗をきたしていた。かかる状況下で、戦後に残された豊富な労働力と僅かに保有していた資材を利用して、いち早く生産に乗り出したものの、昭和21年(1946年)8月には、全生産の7割に当る15工場が賠償指定を受け、これは同年10月に解除されたが、一時は再建不能を懸念されたほどであった。その後も、資材の入手難および材質の低下、電力供給の悪化、労働問題等、他産業と共通の隘路があった。

しかし、戦時中の時計不足を満たすための需要は、内外ともに多く、作れば売れるという全くの「売り手市場」であり、生産は逐年増加の途を歩み続け、一時は、企業数50社に近く、工場数約70、従業員数は約1万人を数えたといわれている。
かような業界の好況も戦中の供給不足が生んだ一時的現象であって、一方では、機械設備の老朽化、海外技術導入の杜絶などの欠陥、空白が露呈し始めて、質的には、戦前に劣ったとされていた。
当時の技術的表現である品質の状況は、次の事実の中にも端的に窺われる。昭和23年(1948年)、商工省が、国産時計の品質向上を目的に行なった第1回の品質比較審査会(時計コンクール〉の結果では、止りの故障が極めて多く、ウオッチで34%、クロックで28,7%の比率を示しており、翌24年の第2回においては、それぞれ21,6%、14,9%と向上したものの、全般的にはまだ戦前の水準にまで及ばなかった。
かように戦後の合理化進展は、設備、資材、人的要素、技術の低位性に起因して、一向に捗々しくなかった。かかる状態に対し、通産省は25年(1950年)始め、手動機200台、半自動機300台の自動化を含む前表の如き「時計工業合理化目標及び進捗状況」を発表した。
しかし、中小企業の多いわが国時計業界にとって、一私企業の力による設備資金の調達は、極めて困難であり、一方で政府の援助が計画として描かれながら、国家資金の放出、その他実質的裏づけの点で極めて消極的に見えたのは、輸出産業としての時計業界の地位に確たる見通しがなかったこともあって、合理化目標の達成は、行き悩みの状態であった。
しかしながら、国内の旺盛な需要に支えられて、一応生産を伸長させることができ、わが業界は、復興の途を辿ったかに見えたが実は、輸入制限および保護関税によって国内市場を確保するとともに、22年(1947年)8月以来の貿易再開後は、為替安によって主として東南アジア市場にも輸出されてもいたが、決して品質を買われたとは思われぬ状態であった。

 

このあと、国内市場においては、

  • ① ドッジ・プランによる「緊縮健全財政政策」のもたらした国内不況と購買力の減退。
  • ② 高率の物品税(時計には戦時から22年3月まて"60%、以後23年7月末まで50%、その後30%の高率物品税が課せられた)。

また、輸出面では、

  • ③ 貿易再開後、最大の仕向国であったインドのOGL〈Open General License System - 包括輸入許可制)24年3月に停止。
  • ④ 時計の2本建レート(懐中、目覚 - 430円、腕、置、掛一410円)が、24年4月、360円の円高単一レートに設定。
  • ⑤ 24年9月、ポンド切下げ実施により、当時時計輸出の70%がポンド地域向けであったわが国にとり輸出不振に拍車。

などの影響から、国内需要の停滞を専ら輸出により回復せんとする時計産業は、甚大な打撃を蒙ることになった。

国内需要の低迷、貿易条件の悪化という内外両面の要因により、生産は低落したにもかかわらず在庫は逆に増加するという時計業界にとって、戦後最大の試練に当面することになり、整理、倒産の企業が続出するとともに時計生産も激減した。業界のかかるきびしい淘汰の後、能率、品質、コスト等生産面の合理化が真剣な課題として採り上げられることになったのである。
この結果、24年には前年発表された時計工業復興5ヶ年刮画と時計工業自動化3ヶ年計画の促進のために、自動化計画を短縮して1年以内に達成することが決定され、時計協会と時計用工作機械メーカーの協議によって、資金3億1,000万円の融資を手配して、時計専用自動機1,000台を1年以内に製造する計画が立てられている。

シチズン時計株式会社 自動機工場(昭和20年台初期)

時計工業合理化目標及び進捗状況(通産省資料を転載)

項目 合理化進捗状況 今後の合理化方法 備考
生産方式 1. 設備機械の改修 1. 新鋭自動機械の新設 時計工業の合理化によるゴスト引下は20%~30%を目標としている。これがために設備自動化資金として約3億円を必要とする。
2. 建物の補修改良  (イ)ブラウンシャープ型自動盤
3. 分散工場の集結  (ロ)ピーターマーン型自動機
4. 作業方式の改善  (ハ)地板専用自動機
 (イ)切削工程の改善  (二)ランターンかな専用機
 (ロ)部分品加工の打抜作業への移行  (ホ)多軸ボール盤
 (ハ)リミットゲーヂシステムの採用  (へ)その他
 (二)ダイキヤストによる部品製作 2. 検査器具の整備
 (ホ)工程管理の強化  (イ)光学検査器具
 (ロ)材料試験機
生産技術
の向上
1. 設計の改善 1. 外国技術の導入
2. 素材品質の改良  (イ)外国交献
 (ロ)外国カタログ
2. 外国製品の購入
3. 技術者の海外派遣
経営方式
の改善
1. 販売費用の節減 1. 海外市場の開拓サービス
ステーションの設置
2. 事務職員の現場転換 2,国内販売網の充実
3. 下請工場の活用の技術指導
4. 協同施設による中小企業の合理化

 

4-2.内需拡大による成長時代(昭和20年代後半から昭和30年前半)

日本の時計産業が本格的に立ち直りをみせたのは、25年(1950年)7月に勃発した朝鮮動乱に負うところが大きい。偶々、高度な精密機械をスイスから輸入することができたので、従来の老朽化した機械に替り、最新の精密機械によって高品質の時計が生産されるようになり、朝鮮動乱による日本経済の急速な立ち直りに伴い国内需要は活発化し、昭和29年には、戦前の最高生産高を上回る560万個を記録するなど、徐々に時計産業復興のきざしが見えはじめ、20年代末には、一応次の30年代の成長への足掛りとなる体制が作り上げられた。質的にも、本格的な互換性をもつ段階に近づいて、精度でスイスの時計を追うきざしを見せはじめたのも朝鮮動乱以後と考えてよい。
当時は、外国時計に対する輸入制限と高率の関税障壁に国内市場は守られていたが、朝鮮動乱以来、激増した密輸時計と米軍兵士が持込む中古時計が氾濫、横行し、時計の正式輸入が認可された27年(1952年)以降ですらも、安価な密輸時計のために市場の流通秩序は混乱し、国産時計の売行きにも多大の影響をおよぼした(明確なデータはないが、27年頃の月間のウオッチの国内生産10万個に対し、密輸入の時計は40~50万個と推定されていた)。昭和23年から宣伝活動の一環として、毎年時の記念日を挾んで開催されていた時計展示会が、密輸時計の駆逐と国産時計の愛用に積極的にキャンペーンを切換えたのもこの時期であり、また一方で、密輸時計の防遏と物品税減免の陳情活動が、主務官庁宛に活発に行なわれたのもこの時期であった。
既述の通り、第二次世界大戦は、わが国時計業界にはかり知れない技術的後進性をもたらした。時計生産技術の進歩を阻止したばかりか退歩すらさせたのに反し、中立国スイスの時計工業は、戦中のこの5年間に飛躍的な進歩を遂げていた。

例えば、

  • ① 自動巻ウオッチの完成
  • ② 防塵、防水装置の実用化。
  • ③ 磁気不感性ぜんまいの開発、付与。
  • ④ 耐震装置の一般化。

などに集中的に表現され、わが国産の時計の水準を遙かに抜いていた。

これに対してわが国では、まず紳士用で中三針形式を24年からとり始め、27年にはカレンダー付きのウオッチが、30年には自動巻を、そして31年にはようやく耐震装置つきのウオッチが発表されている。性能的には、輸入合金のヒゲぜんまいを採用しはじめ、やがて国産化が成功して部品精度と部品の仕上げでも次第にスイス製品の水準に迫っていた。しかし、32年頃までは正規輸入あるいは密輸入によって日本に持込まれるスイス時計が、依然として品質と流行をリードしていたし、性能、スタイル、コストなどあらゆる面でスイス品の優働生が認められた時期でもあった。
わが時計業界にとって、こうした技術的後進性からいち早く脱却することが、昭和30年代の急務ともなり、各種の施策が以下のように表現されている。
即ち、昭和31年(1956年)、中小クロック企業の時計生産技術の改善発達を目的にした「〈財〉日本時計生産技術開放研究所」の設立、32年(1957年)、企業近代化のための「企業合理化促進法」、さらに34年(1959年)の「機械工業振興臨時措置法」の業種指定がそれである。
一方、民間側においても、品質の一層の向上を目標に、脱進機、調速機、歯型、真類、軸受の研究分析、あるいは材料、部晶、工具類の研究開発が産学協同で進められ、企業側はさらに、生産の合理化を図るため高性能の自動加工機、高精度の測定機、工作機械等を導入した。

その結果、数年の間に工場設備は全く一新され、生産効率が単に上昇したのみでなく、加工精度も著しく向上したのと同時に、ベルトコンベアシステムによる流れ作業の採用が可能となり、また、品質管理をはじめとする近代的な各種管理技術を生産工程にとり入れたことにより、作業の標準化、工程管理の充実が達成され、ここにおいて近代的な量産体制が確立されたのであり、と同時に、企業合理化促進法、機振法が究極の狙いとしていた重要産業、輸出産業としての基盤が、着々と固まりつつあった(第1図参照)。

目ざまし時計の検査 部品作業 テンプのバランス調整
目ざまし時計の検査 部品作業 テンプのバランス調整

時計組立ライン時計組立ライン

第1図

4-3.内需の伸びと輸出による発展期(昭和30年代後半より昭和40年代前半)

1962年(昭和37年)インドHMT技術者研修
インドからの研修生

前述の如き背景があって、品質は外国品に遜色のないほど一段と向上し、機種の多様化とともに、クロックにおいては電池式への移行が目立ちはじめた。機能、デザインなどバラエティに富んだ製品が多くなり、34年(1959年)以降の一般景気の上昇による内需の拡大に伴って、生産は急伸長を遂げている。特に昭和30年から39年に至る10年間の伸びは、ウオッチが5.9倍、クロックが3.2倍と著しいものがあった。
国内需要が急拡大したのは、国産品の品質向上とともにその評価が高まったことは勿論のことながら、第1に、戦後の空白期間により膨大な潜在需要が生じたこと、第2に、所得水準の上昇に伴って、需要層が低年層に至るまで拡大したこと、第3に、時計に対する意識が、貴重晶、薯移品から生活必需品、流行商品、装飾品へと移行したことなどが考えられる。

しかしながら、普及の頭打ちと内需の伸び鈍化の見込から、成長力維持のためには輸出砿大のための方策を講じる必要に迫られることとなり、昭和34年(1959年)ごろより海外市場に対する本格的な調査が行なわれはじめた。
時計総生産が、はじめて2,000万個を超えた昭和38年(1963年)には、本格的輸出の発端ともなった米国の属領島バージン島への輸出が始まり、また、同年、軽機械の他の7業種と共同の軽樹戒センターが、ニューヨーク、デュッセルドルフ、ロンドン、バンコックの4都市(後年、ロンドン、バンコックの2ヶ所は閉鎖された)に開設され、輸出振興、市場調査の面での活動が期待された。

歩度計による検査 自動旋盤
歩度計による検査 自動旋盤

この頃になると、わが国の時計は、品質面で国際水準に達しており、コストダウン化により価格も安かったので、十分な国際競争力も備えていたが、海外の時計市場に対する情報不足、日本品に対する信頼1生、ブランドイメージの低さなどが、輸出促進の阻害要因となっていたので、各センターは、各地の情報収集、現地マスコミを媒体としての広汎な宣伝活動を行なうとともに、輸出先市場としてそろそろ軌道に乗りはじめていた米国における諸問題-関税引上げ、原産地、バージン島無税輸入割当枠の設定等-に対して、米国議会に働きかけるなど問題解決に成果をもたらしている。


第18回東京オリンピック 1964年(昭和39年) TOKYO 1964

さらに、39年(1964年)のオリンピック東京大会で、競技計時システムに、国産時計が初めて採用され、その正確で統一されたシステムが一躍世界の注目を集める一方で、スイスでの時計コンクールにおいて、わが国ウオッチが上位を独占するなど、わが国時計技術の高度性が広く世界に認識されるとともに、ブランド知名度も一挙に上がって、40年代以降の飛躍的な輸出増大の大きな因子となった。
第1図でみる通り、昭和30年代は、旺盛な内需に支えられて発展した生産の伸びは、40年代以降となると、急速かつ順調な輸出拡大が大きく生産の伸長に寄与していることが明らかである。

主力の国内企業は、将来の国内市場の成長率鈍化の見込みから、販路開拓を広く世界全域にわたって積極的に行ない、輸品の増強を図っていたが、昭和30年代末ごろより東南アジア向けの完成品輸出が積極化され、また、米国向けには、クロックは旅行用目覚時計が活発に輸出され、ウオッチはムーブメント輸出が開始された。これは、当時ブランドカ、販売力に乏しい日本ウオッチメーカーの採り得る最善の方法であり、特に関税の低いバージン島向け輸出によって市場開拓の足掛りが比較的容易にできたことも幸いしたと言える。
昭和30年代に驚異的な高度経済成長をなし遂げたわが国に対して、諸外国から輸入制限や為替管理の撤廃など開放経済体制への要求が強まり、これに応えて、39年(1964年)にはIMF8条国に仲間入りし、さらに経済協力開発機構(OECD)に加盟、また全面的ではないが、貿易自由化も段階的に進められた。この結果、それらは国内の企業を刺激し、自由化を控えて国際競争強化のための企業努力をもたらし、かえって輸出を増加させることとなった。

40年代は、わが国の代表的輸出産業の一つとして発展を続け、国内の不景気に遭遇して、内需不振となってもこれを輸出でカバーし得る体制を確立し得たのである。
この結果、輸出比率は昭和38年(1963年〉の23%から45年に31%、49年には42%にも上昇した。特にブランドの強化されたウオッチの伸びは著しく、49年の輸出比率は56%にも達し、スイスに次ぐ生産、輸出国となった(第2図、第3図参照〉。

第2図

第3図

 

4-4.エレクトロニクスとの結合による発展期(昭和40年代後半から昭和50年代前半)

昭和45年(1970年)ごろともなると、時計は数百年の歴史のなかで、機構的には極限といわれるほどの進歩を遂げ、高振動化への追求とともに付加装置を装備して、完成の域に達していた。従来の機械式時計は、製品が精密である故に労働集約的なものが多く、この特質は、わが国の賃金メリットが競争相手国に比べ格段に優位にある間は、わが国にとって大きな利点であった。

しかし、昭和40年代後半ともなると、この格差は急速に縮まり、相対的強みであった筈の労働コストは、上昇により国際競争の上から大きな問題となってきた。従来の機械式時計では、機械化による合理化にも限界があり、また、機能の向上、新製品の開発のためにも一層の技術革新に取組む必要があった。

わが国における電子化への傾斜は、クロックにおいて既に昭和30年代から始まっていたが、ウオッチでは昭和40年代から始まった。41年(1966年)には動力源をぜんまいの代りに電池に置換えたウオッチが出現したのである。当時、自動巻タイプが流行の大宗をなしていたウオッチ業界にとって、ぜんまいを巻く心配のいらない電池式ウオッチの出現は、新機軸なものであったには違いなかったが、精度上の貢献をもたらしたとは必ずしも言えなかった。

世界初めて商品化されたクオーツウオッチ
世界初めて商品化されたクオーツウオッチ

このような動きのなかで、昭和45年(1970年)になると機械技術と電子技術の新たな融合を目指す独創的なウオッチが、わが国にも現われた。金属音叉を調速機とするこの電子式音叉ウオッチは、日差を一躍2~3秒程度に縮め、時刻精度の向上に一役を果したものの、世界的な趨勢にまで発展しないうちに、一方では、それまでクロック類には昭和37年ごろより採用され、その高精度性が認められていた水晶振動子をウオッチに利用することが試みられていた。スペース上の制約のあるウオッチの中に、如何にしてムーブメントを形づくり、携帯可能な小型なものにするかの研究が進められ、さまざまの試行錯誤を繰返しながら、ついに昭和42年(1967年)、試作モデルとしての水晶ウオッチが、はじめてわが国とスイスとにおいて同時に完成し、そして昭和44年(1969年)、水晶式アナログタイプのウオッチが、世界で最初にわが国によって商品化され、時計本来の特性である高精度化追求への当然の所産として、日差0.3秒前後という機械式の100倍近い精度を有するウオッチとして市場に出されたのであった。

このような電子技術の応用は、わが国のみならず世界の時計産業に大きな変革をもたらした。

機械技術が電子技術と結合することによって、作業工程の機械化、自動化は急速に進み、そして両技術の先端をゆき、その吸収の早かったわが国の時計企業は、わが国を世界有数の時計生産国に押し上げたわけである。一方では、機械的技術優先主義が崩れると共に電子化技術の急速な高まりによって、精度の補完が可能となり、電子化への傾斜は、当然の趨勢として急速に進むことになった。

電子技術の導入は、企業に生産体制の変革を強要したが同時に生産性を著しく向上させ、さらには画期的製品をも生み出すことになり、昭和48年(1973年)、機械部分を全く持たない全電子のウオッチ、即ち液晶デジタルウオッチが世界で最初にわが国によって商品化されることとなった。

このような時計の電子化への進展は、普及の飽和状態にあった市場に、新たな需要を喚起すると同時に、従来以上に量産工程を可能にし、同時に他業種からの参入も可能にしたためにウオッチで2社、クロックで4社が、時計産業に加わっている。各構成部品の性能は急向上し、量産化によってコストダウンも急速に進み、機絨式の価格レンジにまで低減したために、国の内外における価格競争は一段と激しくなりつつある。

回路ブロックへのICの実装 商品検査室
回路ブロックへのICの実装 商品検査室

昭和43年(1968年)ごろより始まったわが国企業の海外進出は、生産の海外移転による効果のみならず、投資先からの逆輸入、投資先への資本財・半製品輸出などの効果を通じて、国内産業構造の変化を推進している。
時計業界の場合、海外進出の動機は、その殆どが労働力確保と市場確保に集約されている。
わが国での昭和40年代の高度成長による労働力需要の拡大は、労働力の不足と賃金の上昇を招き、これによって労働集約産業である時計工業は、豊富な労働力と低賃金を求めて、韓国、台湾、香港、シンガポール、フィリッピン等にその第二の生産拠点をもとめているが、これは同時にこれら発展途上国の経済発展にも貢献しており、新しい国際的水平協業システム化は、1980年代の趨勢とみることができる。
また、海外進出の主要な要因の他の一つである市場の確保は、欧米先進諸国ならびに市場の有望性が確実視される東南アジア地域、さらに関税障壁など輸入制限的な動きがみられる中南米諸国に対しても、現地生産工場の設立が推進されている。これらは、単なる市場の確保を図るばかりでなく、相互依存の協調によって国際経済発展のために大きな役割を果していく方向といえよう。

技術面でのイノベーションの進行と共に生産、輸出とも順調な発展を続け、昭和54年(1979年)の生産は、遂にウオッチ5,970万個、クロック4,350万個、総生産は1億個を超え、名実共に世界第一の時計生産国にまで成長した。昭和45年以降、ここに至るまでの道程は、決して順調なものではなく、下記に列記されるような障害に逢着し克服している。

  • ① 46年8月 - 米国ドル防衛策に伴う輸入課徴金(10%)制度。
  • ② 46年8月 - ドルショックに伴う円の変動相場制への移行。
  • ③ 46年12月 - 円切り上げ(1ドル308円)。
  • ④ 47年9月~48年8月 - ウオッチ輸出自主規制。
  • ⑤ 48年2月 - 円再び変動相場制移行。
  • ⑥ 49年1月 - 前年11月のオイルショックに伴う石油、電力の使用制限強化、原材料の入手難および高騰。
  • ⑦ 50年4月 - オイルショックによる景気後退から需要低迷し、時計業界は、「雇用保険法」、「不況業種産業」の業種指定を受ける。
  • ⑧ 52年10月 - 円高基調となり、輸出への影響が懸念される。
  • ⑨ 53年4月~54年3月 - ウオッチの輸出抑制指導。
エレクトロニクスとの結合による発展期

以上、さまざまな問題に当面しながらも、 - 方で、競争相手国であるスイスが、水晶ウオッチの将来予測を誤ったために電子化への対応が立遅れ、加えてスイスフランの高騰などにより低迷あるいは後退を余儀なくされているのに反し、わが国では、価格競争力の強みと、非価格面でも水晶式の技術での世界的な先行から、着実に国際的なシェアを伸ばしつつあると共に、今後の主流と目されるクオーツの生産比率を年毎に高めており、昭和53年(1978年)40%、54年57%となっている(第4図参照)。

一方、クロックにおいても、40年ごろまで、国内需要の緩やかな伸びに依存して安定成長を続けていた生産は、その後48年のオイルショックによる需要低落時まで、伸び率は急速に高まっていった。これは、住宅ブーム、核家族化による世帯数の増加、贈答品需要の増加など国内需要の急増と共に輸出が本格化したためであった。しかし、50年以降は、世界的な不況の背景もあって内外需共に芳しくなく、横這いの状態が続いている。

電子化による機腫の変遷は、ウオッチと同様クロックにもみることができる(第5図参照)。機械式、交流式が落込み、水晶式がその - 部を占める電池式が近年急速に伸びている。水晶式は54年において、クロック全生産中の50%に達したと思われる。

電子化への進展は、時計の流通面にも多大の変革をもたらした。機械時計時代には、保守的な流通秩序が維持され、時計専門店中心であったものが電子化時代と共に、スーパー、デイスカウントハウスなど大量販売店、その他電器店などの他業界販売を中心に販売合戦が敷化しており、小型の時計専門店などに多大の影響を与えている。

第4図

第5図

4-5.現在の時計産業(昭和50年代後半~現在)

今まで精度や信頼性の向上にさまざまな知恵が結集されてきた時計ですが、今日では、さらに高機能化、地球資源や消費者の保護に力点をおいた商品作りに力が注がれています。例えば、光エネルギー発電、自動巻発電の時計、標準電波やGPSの信号により時刻修正をする時計、あるいは、金属アレルギーを起しにくい材質のケースやバンドを使った時計などです。

また、腕時計は、更に持つ人の個性にあわせてデザイン性を活かしたものや、通信機能、スポーツ・健康の分野での利用、多様化・高度化されたいわゆる携帯情報機器への拡がりも見せています。

参考文献:

  • 「日本の時計」山口隆二著、日本評論社、昭和25年
  • 「時計史年表」時計史年表編纂室編、河合企画室、昭和48年
  • 「時計工業の発達」内田星美著、セイコー時計資料館、昭和60年
  • 「時計発達史」高林兵衛著、有明書房、昭和60年
  • 「時計」清水修著、日本経済新聞社、平成3年
  • 「日本時計協会30年史」日本時計協会、昭和55年
  • 「工業統計表」通商産業省、平成10年版
  • 「セイコー時計資料館、各種史料」